玉岡かおる
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わたしたちの女紋
『をんな紋・あふれやまぬ川』を書きおえて
本の旅人
 


友人夫婦に子供が生まれた。女の子だったので、ご主人の方は、もう今から「嫁にはやらない」と言ってでれでれしている。また別な友人は、大学に通う二十歳のお嬢さんの写真を持ち歩き、「いいご縁があったらよろしく」と、営業活動にぬかりがない。
少子化の時代、社会全体が豊かになったことともあいまって、子供に対する過保護はますます加速している。わけても、いずれよその男にくれてやらねばならない定めの女の子には、親の思い入れには格別なものがあるようだ。
かく言う私も、年子で二人の娘を持っているが、嫁にやるやらないというはるか以前の思春期で、はや座礁ぎみの毎日である。
なにしろ、わけのわからない物質が溢れ返るこの世の中だ。ローティーン向けの安物コスメや厚底靴など、色気づいてきた証拠にとまどうことなどまだ序の口で、パソコンのネット上で知り合った“チャッ友”とオフ会を開いて遠くの町まで出掛けていったり、深夜に携帯電話でぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋っていたりと、その交遊域は私が中学生の頃にはありえなかった大きさになっている。世間を騒がす事件が起きるたび、親としては、自分の娘を守ろうと躍起になって、そうして娘にうざったがられ、嫌がられる。まったく、女の子の親など、割に合わないものである。けれども、自分が子供であった時も同じだった。親はいつも心配性で、口うるさくてわずらわしくて。そして子供の方では、たえず親に反抗的で、隙さえあればこそこそ隠れて興味の赴く方へと流された。
取り巻く時代や環境こそ違っても、母と娘というものは、きっと永遠に変わらない。けれど、ついに仲直りすることなく死別した母のことを考えるたび、おそらく母には母の、娘に語っても語っても語り尽くせない言葉があったのだろうと思えてくる。人生の時を経て、やがて順番がきて理解することになるあふれるほどの母の言葉の数々を、今となってはふたたび聞かせてもらうすべもない。
思い出を手繰り寄せる写真など、言葉に代わる手掛かりが残っているのは幸いだが、昔は、娘が母をしのぶ形見といえば、嫁ぐ時母が持たせてくれた道具の中の、小さな小さな紋だけだった。
女紋。花嫁となって親のもとを離れていく時、家紋ではなく、母親と同じ、小ぶりの紋をつけていく関西だけの風習。そこには、いったいどんな理由があったのか。
このふしぎな民俗に心惹かれ、明治末期の播磨地方を舞台とした『まろびだす川』を書きはじめた。
当初は、私の祖母である柚喜という、女子師範学校に通う一人の少女とその母・津多、それから柚喜が嫁いでもうけた千代という女学生と柚喜自身、そして私の世代に至る現代の母と娘、三組の母娘を、三部に分けて描くつもりでいた。
ところが、昭和初期を背景とする第二部『はしりぬける川』で、思いがけなく、氷菜というヒロインが、著者の手をぐんぐん離れ、勝手に動きだしてしまった。
お産が命がけであった時代、母親の命とひきかえに生まれ落ち、たった一人で人生を泳ぎ渡らなければならなくなった彼女は、まさしく、時代に虐げられた無数の弱い女の象徴だった。
人々が忍耐と服従を美徳として生きたこの時代。時は敗戦の色濃い昭和十九年、二十年という頃だ。ささやかな幸福の中、万喜という五歳の少女の母になった彼女がどう生きるか、何をなすか。
むろん、その時代には、生まれてもいなかった私であるが、どうしても彼女の人生に結論を出してやりたい、そう思った。
今度上梓した第三部『あふれやまぬ川』では、時代に屈するほかなかった氷菜の人生を、どこか母親のような目線で見守ってきたような気がする。小さな女紋から放たれた、母と娘のこの物語は、もしかしたらまだここで流れやまず、先へ先へと繋がることになるかもしれない。