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出会いというより、一つの別れが、私の人生を変えたように思います。
大学を卒業後、中学の教師を二年でやめて、今でいうプータローみたいな生活をしてたんですよ。何かしなきゃと、一九八一年七月ごろ、神戸の朝日カルチャーセンターに申し込みに行きました。すでに満杯でしたが、神戸大の教授をなさってた川端柳太郎先生の随筆教室に滑り込みで入れてもらえました。
教輔は合評制でしたから、面白くって毎回出すし、随筆なのに原稲用紙に三十枚も書く始末。しかし、人生経験が浅い。いずれ随筆では限界がくるなと感じていました。八三年に雑誌「non・no」の「ノンフィクション大賞」を受賞。先生から本格的に文章で何とかする道を考える気はないか、と言われたけれど結婚して教室から遠ざかり、先生とは年貿状を交わす程度の仲になっていました。
八七年の春、かつての教室の方から突然、「新聞見た?先生お亡くなりになったのよと電話があったんです。道を歩いていて気分が悪くなり、そのまま亡くなられた、という。まだ五十五歳。「子育てが一段落したら、教室に戻ってきますね」という約束を果たせないままの別れとなってしまいました。
初盆のころ、教室の仲間と集まりました。三歳の長女に「これで、お絵かきしとき」と、その場にあった紙を渡した。「もう書くとこない」というので、表を向けたら、それが神戸文学賞の応募要項。賞の選考委員でもあった先生は「教え子から受賞者出ないかな」と言っておられたとの話が出ました。果たせなかった約束が私の中で急速に膨らんできて、「ああ私しかないやん」と。当日の消印有効というぎりぎりの九月三十日夕に書き上げ、郵便局に駆け込んだんです。
年末に発表があって、記者の人が取材にみえた。私、旧姓玉岡っていうんですと言ったら、大変驚かれた。聞くと「川端先生がよくあなたの話をされてた。いま有望株がいるんだけども、残念ながら育児休暇中なんやって」。もう、そのときはハラハラと涙が落ちましたね。ゴールには先生が待っていてくれたと。
神戸文学賓がホントの意味での先生との出会いになったのだ、という気がしています。
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