玉岡かおる
玉岡かおる

Information:

突然のサーバー移転でご迷惑をおかけしました。まだデータを引き継げていませんが、とりあえず公開いたします。


最新の絵手紙

最近の日記:


お知らせ:


掲載紙・雑誌:

ふるさと
読売新聞 1997年12月13日
 


古里が自然に心からあふれ出て結晶した

同級生らに励まされ

播磨の地大切に小説を

 

 若い男女の心の機微を描いたデビュー作「夢食い魚のブルー・グッドバイ」(一九八七年)に、こんな一節がある。

私の旅の、最初の駅は、昔このまちにあった城あとにある。戦国時代の山城で、今は古井戸と安っぽい石碑が残っているだけだった。天下びと・太閤秀吉がまだ羽柴筑前守と呼ばれていた頃、中国攻めの第一歩に落とした城だとか

舞台のモデルは生まれ育った三木市。「山城」は城主・別所長治が秀吉に攻められ、自害した三木城。実家から歩いて十分ほどの小高い丘の上にある城跡は今、市民が憩う上の丸公園になっている。眼下に広がる市街地の向こうには、穏やかな山々が連なる。

三木は作家というより、一人の人間としての原風景。目を閉じて古里を思う時、上の丸公園から見下ろした播州平野の田園風景や、幼いころ、近くの大宮八幡宮の境内で弟と探検ごっこをした思い出が心に浮かびます

 実家は洋品店だった。母は厳格な人だったが、文学少女だったこともあって、店を切り盛りする多忙な合間をぬって、幼稚園の蒔から童話を読み聞かせ、児童書もたくさん買ってくれた。その影響もあって、小学生のころには、読書好きだった七つ上の姉の部屋から小説をこっそり借り、むさぼるように読んでいた。

卒業文集には「将来は小説家になりたい」と書きました

 もっとも、大学では教育実習が面白く、卒業後に選んだだ道は教師。地元の中学で勤め、天職だと思ったが、既存の教師像には収まりきれなかった〈二年で退職、神戸の随筆講座に通いながら書いた「さよならたいやき君」が八二年、集英社のノンノ・ノンフィクション大賞に輝く。

小説とは何か。何をどう書いたら小説たりうるのかが分かりませんでした。でも、表彰式で選考委員のエッセイスト・木村治美さんに「あなたはもう小説を書いている。小説は自由なもの。自分の思いを書けばいいのよ」と励まされ、なるほどそうかと思いました

 その年、歯科医の夫と結婚した。高砂市の夫の実家へ嫁ぎ、八四年には長女が誕生。妻、嫁、母と一人三役をこなす多忙な日々が始まった。その直後――

長女と命を交換するように母が亡くなったのです。喪失感の中、無性に書きたいという思いが突き上げてきました

 家族が寝静まった深夜、廊下の隅に古い机を置き、原稿用紙に向かった。それがデビュー作。

育ててくれた古里が自然に心からあふれ出て、結晶したのです

 二女も生まれ、九〇年に加古川市へ転居、家族四人の暮らしがスタートした。ただ、出版社の多くは東京にあり、遠く離れていては不便。「作家を続けるには東京に出ないと」と勧める人もいたが、初めての印税で買っていたワープロが播磨につなぎ止めた。パソコン通信で、瞬時に原稿を送ることができるようになっていたのだ。

結果的にはよかったですね。私の古里は一度も離れたことがない播磨。急しゅんな山はなく、広大な平野。人々も穏やかで居心地がいい。思う存分、私を甘やかしてくれる、いい意味でのぬるま湯なんです。月に一度は刺激を求め、東京の出版社などへ行きますが、自宅に帰るとほっとして落ち書きますね

 加古川の友人ら「私設応援団」を結成。四年前に開かれた二十万部突破の記念祝賀会には、中学や高校時代の同級生、恩師も含め、二百人が駆け付けてくれた。

本の感想を話してくれたり、懐かしい学生時代の話に花が咲いたり。励みになる反面、変なものは書けないなあと痛感します。実家では、父や弟のお嫁さんが払の作品の掲載誌全部を買ってくれています。ありがたいところだなあと、つくづく実感しますね

今年、新潮社の文学賞「山本周五郎賞」最終候補作となった「をんな紋」は、播磨に連綿と伝わる女系の血縁を描いた長編。女紋は、たんすや着物など嫁入り道具に母系の紋を入れる風習で、舞台は加西市。

人は生きている限り、受け止めたものを先へとつないでいく存在。母から娘へ、血潮の糸で伝えようとする女たちの婆がおぼろげながら見えてきました

 来夏には第二部の刊行を計画。播磨に根付き、活躍する唯一の作家としてのライフワークだ。

小税家は暮らしの申に作品があると考えています。生まれ育ち、生活している播磨の地を大切にして作品を書き続け、多くの読者に感動を与えていきたいですね