玉岡かおる
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裏山のお隣さん
水とくらし
 

今から20年以上も前になるだろうか。「六甲ケーブル下」駅よりまだ高いところに、K先生のお宅はあった。当時、そこから上には人家は一軒もなく、裏庭の背後はもう六甲山の崖だった。坂の途中に「!」のマークの標識が立っていたのは、山だから思いがけないアクシデントもありえますよ、という意味だったのだろう。
「こんなに上じゃあ、行き帰りがたいへんでしょう」同情もこめてそう言うと、先生はいかにも平気、と余裕の態度で答えたものだ。
「いいえ。これがまた、下界と天上を往復するみたいな気分でね」
ある日、そんな先生のお宅を訪ねて遅くなった。帰りは坂道の暗がりを用心深く下り、ようやくガレージの空き地に止めた私の車にたどりつく。
するとボンネットの前で、かがみこんだような黒い影が、もぞもぞ動いているのだ。
「誰ッ?」
即座に身構えたのは、ちょうど従兄が愛車スカイラインGTRのボンネットからエンジンをそっくり盗まれた後だったからだ。しかし相手は答えない。
「何してるのよ、出てきなさい」           
前には民家を背にした私たち、後ろは六甲の崖っぷち。これでは相手も袋のネズミだ。           
ところが数十秒後、ぶいぶい、と唸りながら姿を現したのは、猪の親子。
「ははあ、裏のイノヤマさんだな。子どもが生まれたんで餌に困ってるんだろ」
後になって聞く先生の声の悠長なこと。しょっちゅう出会うのですっかり猪の見分けもつき、隣人のごとくそれぞれ名前までついているらしい。去っていく様子からすれば、いやあ脅かしてすまんすまん、と反省しているはずだとか。
今ではその先生も六甲より高い本物の天上に逝ってしまわれ、家の上にもどんどん家が建った。イノヤマさんたち親子のその後だけが不詳だが、六甲という神戸の裏山の、いいお隣さんであり続けてくれればいいがと、今も時々思い出す。