|
勢いというのだろうか、今は書くのが楽しくて楽しくて仕方ないという様子で、自然と言葉が弾み、話している間にも次回作の構想や書きたいテーマが次々と。
子供もころから文学少女で、中学時代には自分でミニコミを発行していたぐらいだが、本格的に書き始めたのは神戸のカルチャーセンターの随筆教室に通い始めてから。
「大学を出て二年間教師をしたんですけど、管理主義的な教育に疑問をもってやめたんです。で、浪人の身だし、何かやらなくちゃと思って」
随筆を選んだのはその教室しかあいてなかったという全くの偶然だが、このことが彼女の運命を大きく変えた。
「川端柳太郎という先生で、私の場合年も若かったし、他の年配の生徒さんとyは噛み合わないことが多かったんですけど、気にせずに君は実戦的なものをどんどん書いていけばいいって励ましてくださって・・・。それからはもうほとばしるように書きまくりました。」
で、昭和57年に雑誌ノンノのノンフィクション大賞を受賞。同じ年に結婚し、しばらくは子育てや家事の合間に身辺雑記を随筆にしていたが、たまたま同人誌の会合で子供がいたずら書きしていた紙の裏に神戸文学賞の募集要項が。
「川端先生が亡くなったばかりの時だし、天啓だと思った」という彼女は早速書きためていた二百枚の原稿を規定の枚数に削りこんで投稿。見事に賞をかちえたが、その受賞記事が新潮社の編集者の目に止まり、新たに手を加えて翌年、待望の本に。
現在、年内には出版予定の三作目を執筆中で、ほかにも連載や単発物の原稿を抱えて大忙しだが、一貫して追い続けるテーマは「青春」。
「私って、<遅れて来た世代>の一人なんです。戦争にはもちろん、ビートルズにも全共闘の時代にも遅れた。七つ違いの姉がいまして、私が小学生のころ同志社の学生で、よくいろんな話を聞かせてくれたんです。早熟な女の子でしたから、そういう全共闘世代の青春みたいなものにすごい憧れがあって大学に行ったんですけど、女子大だったせいか、どこにも求めていたものがなくなって・・・。だから今でも不完全燃焼に終わってしまった青春に対するこだわりがあるんです。」
二女の母。家事を子供の世話を終えた深夜が執筆の時間でワープロ相手にコツコツと。
「女としてのフルコースは全部味わいたかったから、作家、母、主婦の三足のわらじに不満はないけど、やっぱり時間が欲しいナ」
一作目と二作目を会わせて早くも十万部の売れ行き。「播州弁が大好き」で、小説の舞台も播州が中心。ベストセラー作家の可能性を秘めた“ノッテる”女性だ。(T)
|